【1.支援対象2.支援内容3.活動日程4.支援プロセス5.所感6.まとめ



(1)カチャガリーキャンプ難民学校兼孤児院(所在地:パキスタン国ペシャワール近郊)
1997年開校。約1400人の児童。約400人が孤児。
(2)国境キャンプ(所在地:ハイバル峠を抜けたパキスタンとアフガニスタン国境そば)
アフガニスタンより逃れてきた人々。
人数は把握できず。

(3)流民キャンプ(所在地:アフガニスタン国ジャララバード郊外)
カブール郊外にいたが、寒波のために死人が続出。そのために逃れてきた30家族(約400名)の国内難民。子ども約150名。

1.支援対象2.支援内容3.活動日程4.支援プロセス5.所感6.まとめ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



【(1)カチャガリーキャンプ難民学校兼孤児院】
ノート2800冊、鉛筆3000本、電動ミシン2台、小麦1.3トン(25kg×50袋)

【(2)国境キャンプ】
ミルク750kg(5kg×150缶)、ノート400冊、鉛筆400本
【(3)流民キャンプ】
小麦約12トン(98kg×120袋)、植物油(5g×60缶)、石鹸100個、   寝具一式60、手動ミシン5台、衣類(成人男用、成人女性用、子供用)   ノート200冊、鉛筆600本、医薬品・診察代300ドル 

1.支援対象2.支援内容3.活動日程4.支援プロセス5.所感6.まとめ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

12月30日   成田から空路にてパキスタン入国(イスラマバード)へ。情報収集。
12月31日   情報収集。アフガニスタンビザ取得後、陸路ペシャワールへ
1月1日   昨年に続き「(1)カチャガリーキャンプ難民学校」を訪問、現地調査。
ハイバル峠通行許可書取得。
1月2日   ハイバル峠を越え昨年に「(2)国境キャンプ」続き訪問、現地調査。
さらに陸路にてアフガニスタン入国、ジャララバードへ。
「(3)流民キャンプ」を訪問、さらに現地調査。
1月3日   物資現地購入。(3)にて緊急支援活動を展開
1月4日   (3)にて支援活動を継続。3部族によるジハード勃発により米兵3名死亡。 危険回避のため、夕方パキスタン(ペシャワール)入国。
(2)にて現地調査。
1月5日   物資現地購入。再度、ハイバル峠通行許可書取得後、
Aにて支援活動実施。  (1)にて支援活動を展開
1月6日   ペシャワールからイスラマバードへ陸路移動。
イスラマバードより日本へ帰国

1.支援対象2.支援内容3.活動日程4.支援プロセス5.所感6.まとめ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(1)現状を把握する(自分の強み、予算、情勢、時間)                
(2)現地スタッフを雇う
(3)支援先を探す
(4)支援先に飛び込み受け入れてもらう
(5)支援先のニーズを調査
(6)支援先にとって何が大事かを考える。またどのような影響があるか検討する。
(7)支援物資の購入
(8)支援物資の運搬
(9)支援物資の均等な配給
(10)アフターフォロー、事後調査
最大のポイントは「時間」となりました。他のメンバーがいたり、大きな団体に属していたり、何かの後ろ盾やバックアップがあるわけでもなく、上記のプロセスを一人で実行せねばなりませんでしたので、時間との勝負、スピードが命となりました。しかし残念ながら徒手空拳、「100%の成果と結果」といわれれば正直、疑問が残りますが、限れられた条件の中なんとかベターベスト、使命を果たせたのではないかと思っております。

1.支援対象2.支援内容3.活動日程4.支援プロセス5.所感6.まとめ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


   

2001年末は入国できませんでしたが、今年はアフガニスタンへ入国することができました。昨年に支援をした地域(1)、(2)に加え、アフガニスタン国内の(3)にて支援活動を展開。

 パキスタンでのキャンプに比べ、さらに貧窮度は高く緊急性の高いものでありました。 現地では国内難民がアフガニスタン政府の施策により強制的に解散させられているそうです。国境付近では、石を垂直に立てただけの粗末な墓が剥き出しの大地に無数にありました。きっと逃れてきた人たちが多くここで命を落としたのでしょう。その無数の墓が「彼ら」が確かにそこに存在したという事実を伝えてくれます。
 

「30家族からなる400名」。これが私が支援をしようと決意させた人々です。キャンプの名前などありません。彼らはもともとカブールの郊外に住んでいたのですが、冬の寒波により老人や子どもなど命を落とすものが続出したそうです。そのために11月に幾分寒さがましのジャララバードへと流浪してきたそうです。ジャララバードから10キロほど離れた場所にある彼らの「家」は、家というには粗末過ぎるものでした。衣服を継ぎ合わせただけの屋根の下、寄り添うように暮らしていました。衣食住がほとんど壊滅しているといっても過言ではなく、病人も多数存在し、薬を買う金もなくそのまま放置されている状態です。

 住み慣れた土地を離れ、険しい山を越えパキスタンに逃れることもできず、国内をさまよい、国際社会はもちろん、NGOやアフガニスタン政府からも存在を気づかれていない人々でした(国際社会の関心が昨年より薄れつつある現在、より事態は深刻かと思われます)。

ここでは現地調査をしながらダイレクトにニーズを把握しながら緊急性の高いものから物資を投入しましたが、最大のポイントは「この冬をどのように乗り切るか」ということでした。そこで主食であるナンを作るための小麦とオイルといった食料支援に重点をおき、1家族が半年食いつなげるだけの小麦を合計約12トン支給しました。また寒波の影響で死人が続出している現状をかんがみ、毛布と厚手の布団を支援しました。砂漠のような土地柄のため夜は大変気温が落ち込むにもかかわらず、ほとんど大地に寝ている状態でした。また体調を崩しているものには薬を支給したり、重症の者はともに病院へ行き診察をうけました。またミシンの支給。女性の中にスキルがありながらどうすることもできなかった現状を共用ミシンを支給することで補い、彼女らが自分でお金を稼げる体制に何とかもって行ければと思っています。

また、衣食住に重点をおいた物質支援活動を展開し、全体支援予算(93万円)の約70%を投下しましたが、書かれていない無形の支援としては彼らと接した時間や彼らに向けたメッセージがそれにあたればと願っています。“自分の存在を認めてくれる人、応援してくれる人が確かにいる”ということを伝えること。「日本には君たちのことを助けたい、そして応援したいという人がいて、ここにいるのは俺一人だけど、日本では多くの人がサポートしてくれている。だからそのことだけは忘れないでほしい。たとえ現状が厳しくともがんばってほしい。支援物資はもちろんだけど、そのことを伝えたくて来ました。君たちに出会えてよかった。そしてありがとう」と私は伝えました。その私の声に、大きくうなずきながら、「ありがとう、そして日本人ありがとう」という声が多くの人から返ってきたことを鮮明に思い出すことが出来ます。もちろん理想論だけではなく、物資を提供することは大変重要なことです。しかし残念ながら、物をあげることには限界があります。それどころか、逆に単に物をあげ続けることは、彼らの中にあるかけがえの無いものを消してしまうかもしれず、最終的には己が自らの力で前に進もうとしなければ、何の意味もありません。そのきっかけに少しでもなりうることができれば今回の支援も意味のあるものになったのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


“アフガニスタンと岡山をつなぐ掛け橋となり、両国の人を少しでもハッピーにする。またそのような人々を広げることで少しでも苦しむ人を救い、わずかでも地域さらには岡山を変え、ひいては日本を変えてゆくきっかけとなる”という目標を当初掲げましたが、実際、どの程度達成できたのか、それは正直よくわかりません。

 というのも、アフガニスタンでは、砂漠に水を流すような凄まじいほどの現実がありました。病に臥し横たわる少女の瞳、私の頬をそっとなでる中年女性の表情、米軍ヘリが上空を舞い、部族間でも大小の戦闘が続く中で必死に生きようとする人々の姿・・・。さまざまな場面が私の脳裏に鮮明に焼きついています。現地で何度も目の前を通り過ぎた絶望と無力感。圧倒的な現実を前にして、私一人の力はあまりにも無力で僅かでした。そして情けないことに帰国後、身も心もボロボロになり茫然自失の状態が一週間以上続いてしまいました。

 しかし、その間、私の胸の中に昨年とは似て異なるものがあることに気づきます。 一つ目は、“独りではない”ということ。昨年は15万円分の支援しか出来ませんでしたが、今年は多くの方々のお陰で93万円もの支援活動ができました。会ったこともない外国の流民の人たちのために、額に汗を流してくれる岡山の青年や「自分にも何か出来るのでは」と年金生活のなか毎日100円募金をしてくる年配の方、我が事のように心配をしてくれ、帰国した私を迎えてくれた仲間たち。私は多くの人々の「義」「徳」「仁」に心打たれました。

 二つ目は、“たとえ小さくとも確かに思いは届いている”ということ。寒波の厳しい中、たった一袋の小麦が一つ家族の飢えを2ヶ月間助けます。多くの苦しむ人がいる中、とても些細なことかもしれませんが、それは紛れもない事実だと気づきました。そして日本の多くの人の思いは確かに彼らに届いているのです。

 私が去年1400人のパキスタンへと逃れた難民の子どもを前にして約束したこと。「確かにアフガンの現状は厳しい。でもそれを変えていくのは君たちだ。だから勉強をして、いい子でいたらお兄ちゃんは必ず戻ってくる」との私の言葉に、大きな声で「ありがとう」で答えてくれた子どもたち。

 そして今年。その子どもたちが私を待っていてくれたという事実。確かに憶えていてくれたという事実。その事実が私の胸を熱くさせました。

 当初掲げた目標。残念ながらそれが未完成なものに終わったこと、ましてや「黒船になれた」なんてことは決して言えません。さらには、まだまだ未熟な自分をしっかりと正面から受け止めなくてはなりません。しかし“成功する秘訣は成功するまで続けること”というように今後も様々な現実を受け入れながらも、理想を現実で否定せず、もがきながらも、マコトを貫きたいと思います。

 マコトという字は、「真」「誠」がありますが、自分にとって誰がなんと言おうとも譲ることのできない「真」実と、口だけではなく実際に行動する、言葉を成すと書く「誠」。

 “志を持ってあきらめず行動し続ける。そうすれば道が開ける”と言ってきましたが、今後もそれを自分の背中で改めて証明できればと思います。

 「たとえ小さくとも、確かな情熱と愛が、 子どもに希望の明かりを燈し、未来への扉を開く追い風となる」「小さく、ささやかだけど、彼らの背中をそっと支える追い風になる」

 そのために何が成功なのか、本質を常に見極めながら、今この瞬間死んでもいいように、今を悔いなく懸命に生きる。毎日の当たり前のことを当たり前に思わず、今日あることに感謝しながら、日々を大切にしていければと思います。そして、今までやってきたことを誇るのではなく、これから進もうとすることに胸を張れるよう、命を使っていくことを、今あらためて、ここに誓います。

以上、国際協力 風の会  会長:宮瀬 英治